○出されたものを受け取る

最近、以前には感じなかった

不思議な感覚を覚えるときがあります。

例えば、

何か景品などでABCDEFGなど、

たくさんのものがあるとして、

その中から一つ選んでいいとした場合、

おそらく、ほとんどの方は、

ABCDEFGをすべて見てみて、

比較検討や必要性の検討などなど

いろいろと考えた上で、

どれか一つを選択する。

おそらく、

このような感じで、その一つを

決めることが多いのではないかと

思います。

私自身も以前はそう考えて、

行動していることが多いように感じます。

ただ最近、

「出されたものを受け取る。」

そのような心境になる事があります。

選択肢に対して、

あまり自身の思考を挟まずに、

出されたものを受け取る。

そして、その後、あーだこーだ

自分の選択結果について言わない。

ある意味何も考えていないようですね^^

ただ、自覚的にそうしているので、

何かは違うとは思っています。

ちょうど、数日前、

以下のお話を思い出しました。

確か、お釈迦さまのお話だったと

思いますが、行く先々で

出された食べ物を頂くように

されていたそうです。

あるとき、

ある村で出された食べ物に対して、

その食べ物が腐っていたことに

気づかれたそうですが、

お釈迦様は、

その食事を頂かれて、

その後調子が悪くなられたとのこと。

しかし、お釈迦様はその食事を

出された方を決して責めるようなことは

なかったとのこと。

むしろ、気遣うような言葉を

おかけになられたそうです。

お話はここまで。

お釈迦様のお話と私のは次元が違うと

思いますが、どこか相通じるものが

あるような気がしています。

出された食事に対して、

いろいろとコメントをつけることが

現代の社会では普通のような風潮の

ようですが、

唯、唯、有難く頂く。

それもひとつのあり方として

立派に存在すると思います。

いのちを頂いているのですから。

食事を例に挙げさせていただきましたが、

抽象度を上げると、すべてではありませんが、

ご縁、仕事、家族の出来事

などなどに対しても、

同じように、

(自分の都合、思考を都度都度挟まず)

有難く受け取り、粛々と対応させていただく。

なぜ、

今回、それを受け取ることになったのか。

その意味も感じながら。

そのような姿勢もあっていい姿の

一つのような気がします。

とはいえ、

自分自身ができていないことが

まだまだ多いので、

少しづつでも改善していければと

思います。

何か皆さんの考えるきっかけになりま
したら、

幸いです。

いつも最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

感謝いたします。

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