○行きと帰り、行きと行き、どちらも正しい。

先日、熊本山都町にある幣立神宮へ行って、

湧き水のあるところへ降りていく際、

ふと閃いたことがありました。

大きな杉の木を縫うように作られた

丸太数本ほどを使って1つの1つの階段を

歩いて降りている途中でした。

大きな杉は何度見ても気になるので

何度通るときもよく見ています。

そして、その手作りの階段もいい感じで

下りる方向へゆったりとした曲線を描きながら

伸びているからか、何とも言えないいい感じです。

ですので、

杉の木や、降りているときの階段を

俯瞰している角度で写真を撮ることも多いです。

前置きが長かったですが、

その階段を降りているとき、

ふと、感じました。

『行きと帰りとでは、

 同じ道を通っているにもかかわらず風景が違う。』

というのも、

帰りの説明をしていませんでしたが、

帰りは階段を下の方から上へと

登っていく感じになります。

その際に見える風景は、

これまた全然違うものなのです。

そして、続けて以下のことが浮かんできました。

『確かにことば的には「行き」と「帰り」が

 あるけど、違う風景ということは、「行き」と

 「行き」だけみたいだな。』

さらに、

『よく考えて観ると、空間的な視点では、

 「行き」と「帰り」が適切な表現だけど、

 ”時間的な視点”で観ると「行き」と「行き」が

 適切な表現なんだ!』

っと。

これは、

ここ最近の中では大きな気づきでした。

同じ現象であっても、

観る視座によっては表現も変化しうること。

そして、いちばんの気づきは、

『時間は常に一定方向に流れ続けている。』

という、

当たり前といえば至極当たり前ですが、

その真実を改めて認識できた点でした。

この事実を真摯に受け止めるのであれば、

例えば、毎日通っている学校や、職場など、

これはある意味空間的な視座で考えた

場合であり、時間的な視座で考えた場合、

『すべてが全く新しいものである。』

そう言えると思います。

ちょっと頭の中が私自身もぐちゃぐちゃ

状態ですが、きっとこの考えはまちがいでは

なさそうです。

一見、我々は、日々

同じことを繰り返しているように

認識しているかもしれませんが、

正しい解釈としては、

日々新しいことを行っている。

そう思います。

ただ、なぜ、錯覚するのかというと、

人には記憶力があるからだと思います。

ただ、

必要に応じて人間に記憶力や連想力が与えられ、

その能力があるからこそ、いまの社会が

出来上がっているということも事実です。

そういえば、たしか何かの映画で、

記憶が一日しかない人を主人公で描いた

映画があったと思います。

この方の場合、夜寝て朝起きると、

まったく新しい一日が始まるのです。

時間的な視座では、本来は、

これが正だと思います。

ただ、この真実を日々の生活など、

どこで利用していくかについては、

まだ想像が十分にできていません。

(記憶では過去に何度も何度も

 出会っているとしても)

一つ言えるのは、この真実により、

時事刻々、まったく新しいことに

出会っているのだと解釈できるということは、

何か、『有り難い』や『感謝』に通じる

ように感じます。

現時点では、中途半端な状態ですが、

この件について、今後また、思考が深まったら、

ご紹介させていただきます。

今回のシェアが皆さんの気づきや、

何か考えるきっかけになりましたら、

幸いです。

いつも最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

感謝いたします。

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