○生きているときに

あるとき、

地域の方のお通夜に行く機会がありました。

その方とそこまで深い面識が

あったわけではありませんが、

地域のために動かれていたことを

認識していたので、尊敬の意を込め

参加させていただきました。

熊本地震が発生後、

地域の公民館に人がたくさん

集まってきました。

このような緊急時のときには半ば強制的に

共同生活が始まります。

普段はそれぞれの家に居らっしゃるので、

お互いのことはほとんどわからないものの、

部分的な共同生活にいきなり入ることで、

ある種の必要な衝突のようなものも

少なからず心の内と外で、誰しも

持っていたと思います。

この方はそのような中、

ある意味まとめたり、調整されたりする

役割と真摯に向き合われていたように

私の目には映っていました。

今回のお通夜に行って、

改めて感じたことがいくつもあります。

地震の影響はまだ続いているのだと。

近所を歩くと依然として、この寒い中、

仮設住宅に住まわれている方々も

たくさんいらっしゃいます。

そして、その方はその発生当時から、

被害が大きかった方々と向き合い、

そしてきっとずっとずっと真摯に

向き合われ続けられていたのではないかと

私になりに感じました。

中には相当なる心労も

あったのではないかと思われます。

ただ、私の心には、

美しい生き方の見本として残っています。

また、同時に、

『スパン!』

っと、いのちがおわったら?

っという、根源的でありながら、

うっかりすると忘れてしまいがちな問いを

意識の底から引きずり出すことが

できました。

確かに、

人格は金太郎飴のように

時系列的にきれいに繋がっては

いないと思いますが、

どこか一本だけでも、

自分の生き方の筋を通しておく。

その自分が認識している、

体現し続けている生き方の筋と、

そとの方から見た筋が

もし、一致していたら、

そんなに幸せなことはないと思います。

それは、

生きている間にしかできないもの。

であり、

生きているからこそできるもの。

であると思います。

もし、体現し続けているものが

いま、認識の中で見当たらなくても、

いまから始めればいいと思います。

決して、それは、

大きなことでなくてもいいと思いますし、

三日坊主が100回くらい続くかもしれません。

ある意味において、

自分自身だけが知っていることでも

いいのかもしれません。

波動は必ずまわりへ伝わりますから。

ちなみに、私の小さな小さな例で

恐縮ですが、毎日の神棚、仏壇への

お参りでしょうか。(感謝をお伝えする)

生と死というテーマについては、

これまでたくさん考えてきたように

思いますし、これからも何度も何度も

考えて行くものと思います。

私を含め、

まだまだ先のことと思っている節が

もしかしたら、心のどこかにないでしょうか。

実際は神のみぞ知る世界だと思います。

だから、生きているときにこそ、

精一杯、いのちを遣いたいですね。

改めて考える機会を与えてくださり、

誠にありがとうございました。

深い自省を込めて。

今回のシェアが皆さんの気づきや、

何か考えるきっかけになりましたら、

幸いです。

いつも最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

感謝いたします。

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